営業職になったばかりの頃、名刺ファイルを使ってるだけで、「ちゃんとしてる人」になれた気がしてた。
スーツの内ポケットからさっと出して、訪問日順に差し込む。それだけで、“社会人”という肩書きが、自分にちゃんと乗っている気がした。
仕事のあと、家で黙々と名刺を並べてる時間が、嫌いじゃなかった。
あの作業、どこか懐かしいなと思ったら、昔やってたカードゲームと似てた。
レアカードをスリーブに入れて、大事にファイルに挟むあの感じ。
ちゃんと並べることで、所有感とか、安心感とか、「これだけ揃ってる」っていう自己肯定感みたいなものが手に入る気がしてた。
でも、名刺は“コレクション”じゃない。
思い出してほしい人の情報を、すぐ取り出せるようにするためのツールだったはず。
ある日、商談前に「どんな人だったっけ」と思ってファイルを開いた。
でも、あの人の名刺が、どこにも見つからなかった。
差し込んだはずの位置にない。たぶん順番を間違えたんだろう。
結局、わたしはファイルを閉じて、うろ覚えの記憶だけで打ち合わせに向かった。
その時ふと思った。
「この人の名刺を“持ってる”ことより、“覚えてる”ことの方が、大事だったかもしれない」
そこから、整理が少しずつ面倒になった。
同時に、あれは“ちゃんとした自分を保つための作業”だったのかもな、とも思った。
たとえば、上司に「この間の○○さんの連絡先わかる?」と聞かれたとき、
「ファイル見ればわかります」って答えると、“仕事してる感”が出る。
でも、ほんとはファイルをめくるだけのことに、妙に時間がかかってた。
「わかります」じゃなくて、「探します」だった。
少しずつ、並べることが目的になってた。
仕事のためじゃなくて、自分が安心するための名刺整理。
今になって振り返ると、あれはもう、わたしの“ルールごっこ”だった。
その流れでふと考えたことがある。
わたしが渡してきた名刺たちは、いまどこでどう並べられてるんだろう。
ファイルにきれいに挟まれてるのか、それとも封筒の中でまとめて輪ゴムで止められてるのか、
もしくは、もらった数秒後にそのまま捨てられてるかもしれない。
……それもまた、別に悪いことじゃない。きっと、そういうものだ。
今も名刺はもらうし、渡す。
でも、ファイルはほとんど開かなくなった。
整っていないままの名刺たちが、箱の中でちょっとだけ眠っている。
名刺整理をしていた頃の自分を、悪いとは思わない。
でも、あの几帳面さは、自分に向けた説得だった気もする。
「わたしはちゃんとしてる」って、誰に見せたかったんだろう。
見せられる場面なんて、ほとんどなかったのに。
最近はもう、必要なときに思い出せれば、それでいいと思ってる。
そっちのほうが、ちょっとだけ営業がラクだった。
名刺ファイルを開くより、自分の体力が残ってるほうが、大事だった。
“ちゃんとしてる自分”を保とうとした日もあれば、
本気出す前に、もう少しだけ、って思った日もありました。
#きれいに並べたかったのは気持ちかもしれない
#記憶の代わりに残したかっただけ
#誰のための整理だったか思い出せない