いつものように、お得意様のところへ顔を出した。
受付で名前を伝えると、すぐに案内される。
「社長が戻るまで、こちらでお待ちくださいね」
通されたのは、パソコンに向かって仕事をしている人のすぐ横だった。
顔を合わせたことのある人。
でもなぜかその日は、話しかけてはいけない気がして、黙っていた。
キーボードの音だけが、静かな部屋に規則正しく響いていた。
その合間に、自分の呼吸音が入りこむのがわかって、なんだかはずかしくなった。
深く吸うのも浅く吐くのも、どちらも目立ちそうで、息をとめてみたりした。
咳払いをひとつ。
鞄を開けたり閉めたりして、何かを探すふりをした。
バッグに子猫が入っているのかと勘違いされるくらいバッグを気にしていた。
大丈夫、今日もアイツ、着いてきてない。
いろいろ、「気まずくないですよ」みたいな空気を演じてみたが、長くはもたなかった。
何もしていない自分と、黙々と仕事をしている隣の人の熱量が、グラデーションになっていないのが気恥ずかしかった。
しばらくして、やさしい声がふいに空気を割った。
「よかったら、これどうぞ〜」
湯呑みが、そっと机の端に置かれた。
中には、ちょうどいい温度のお茶。
音を立てながら冷まさなくても飲める程度の、心地の良い温度だ。
そのうっすらでる湯気と一緒に、
さっきからの気まずさも、ゆっくりと抜けていった気がした。
温かさに助けられるなんて、思ってもいなかった。
“気まずさに効く飲み物”があるなら、これだと思った。
これからは、
「すごく楽しそうに話していただろう部屋に私が入った瞬間静かになったとき」や、
「送迎時に助手席に唯一話したことのない親戚が乗ってきたとき」や、
「スーパーのレジが混雑している時に、機械のエラーで自分の会計が終わらないとき」などに、
この効く飲み物を飲もう、と思った。
帰ってから、なんとなく似たような湯呑みをネットで探してみた。
「美濃焼 湯呑み」と検索したら、それっぽいのがたくさん出てきた。
でも、うちではお茶を飲む習慣がないし、
気まずいタイミングで湯呑みは出せないので今回は買うのをやめた。
ただその日、自分でも思っていなかったところで、
やさしさに助けられてしまったことが、うれしかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
コンビニでは気まずさに効く飲み物、
見つけられなかったな。
#バッグに子猫がいないことを毎日確認してる
#気まずいときにはお茶に限る
#温度によっては気まずさが増える